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【関東軍】満州事変と満州国12【国際連盟】

528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/10(水) 03:25:28.33 ID:PbBpw/YD0
日中戦争の「不都合な真実」: 戦争を望んだ中国 望まなかった日本
著者: 北村稔、林思雲

 日本は、日露戦争後の一九○六年十一月に南満州鉄道株式会社(略称ー満鉄)を設立し、満州で得た
権益の独占化をめざした。この事態は、アメリカとの間に緊張を高めた。アメリカはすでに一八九九年に、
列強諸国が中国内に勢力圏を設定することに反対する門戸開放宣言を発表していた。 そしてアメリカは
日露戦争にさいして、ロシア勢力を満州から排除するために日本を支援した。さらにアメリカは日露戦争
終結の調停役を務め、これを契機に満州への進出を狙っていた。
 このような状況下、一九○五年九月にポーツマス条約が調印された後、首相の桂太郎と来日中の
アメリカの実業家ハリマンとの間には、日本がロシアから獲得した満州の鉄道権益をアメリカと共同経営
する予備的覚書(桂・ハリマン協定)が作成されていた。しかしポーツマス条約を調印し、ハリマンの離日と
入れ代わりにアメリカから帰国した外務大臣の小村寿太郎が大反対し、この予備的覚書は日本政府により
破棄される。その結果、アメリカでは反日の機運が勃興する。
 もしも日本が、日露戦争後の満州開発にアメリカを引き込んでおれば、その後の歴史展開は甚だ興味
ぶかいものになったのではないか。中国のナショナリズムは、反日だけには向かわずに分断されたであろう。
また資金力のあるアメリカなら、蒋介石の国民政府が一九三○年代に推進する経済建設を飲み込む形で、
満州を開発できたのではないか。そうであるならば、一九三七年に始まる日中間の全面戦争と、その後の
日米戦争は発生したであろうか。その結果として、共産党の中国は出現したであろうか。
 日露戦争後に日本が獲得した満州での権益は、中国との確執だけでなくアメリカとの対立を引き起こし、
日中戦争から太平洋戦争に向かう日本の方向に決定的な影響を与えたのである。
 ちなみに旧版執筆時には、全く筆者の視野に入っていなかった日本の満州経営をめぐる歴史的事実
を提示しておきたい。小村寿太郎の反対はアメリカ資本排斥のためではなく、小村と密接な関係にあった
アメリカの大財閥モルガン商会との共同経営を考えていたからであったという。そしてこの時のモルガン
商会との提携は、アメリカの景気動向の変化で沙汰やみになった。
 しかしこのあと、満鉄とモルガン商会は一九二七年(昭和二年)に満鉄への共同出資を骨子に急接近
する。三井物産重役から政友会に入り、昭和二年に成立した政友会の田中義一内閣のもとで満鉄社長に
就任した山本条太郎が、モルガン商会代表のトーマス・ラモントとの間で交渉をまとめ、アメリカの
国務省がOKをだせば妥結というところまでこぎつけていた。山本は、日本とアメリカが共通の利害を持つ
ことで両国間の軋轢を回避し、同時に満州における中国人たちの反日活動の矛先をそらそうとしたのである。
しかし中国側の朝野を挙げて大反対にあい、中国得意のアメリカ言論界への巧みな働き掛けが効を奏し、
国務省はOKをださずモルガン商会も年末には出資を見合わせてしまった。昭和二年は日本のその後の
歴史を左右する分岐点であった。以上の経緯は、『歴史街道』( PHP 研究所、平成二十四年七月号)掲載
の帝京大学の小山俊樹氏の論文に詳しい。

529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/11(木) 23:46:57.75 ID:LQyEVl+20
 1906年米国は満州に於ける日本の閉鎖的行動に対して、日本政府に猛省を促してきた。「露国が
当該地方に対して国家的独占を行って失敗したのに、日本もまた同様に排他的利益の扶植は痛切なる
失望である」 同月英国大使も本国政府の抗議を西園寺首相の伝えただけでなく、伊藤統監府統監にも
密書を送り、日本に対する不満を訴えた。「目下英米貿易会社が殆ど公言する所は、日本の軍官憲は
軍事的行動により外国貿易の拘束を加え、ロシアの時に比して一層閉鎖的である・・・・このような
日本政府の閉鎖政策は、これまで同情して戦費を供給した英米等を疎隔する自殺的政略だと評して、
伊藤統監に注意を促した。伊藤はこの抗議に憂慮を深めていた。第一に軍部が言うように露国による
対日報復戦が起こるとするなら、これまでの協力を得られず、開戦の場合非常な損害を被る。第二に
戦後の厳しい財政状態を憂慮した。莫大な外債を募りながら賠償金が取れなかった。従って財政的に
対英米依存度を深めていた。戦前には日英同盟より対露協調を説いていたが、戦後には目先の小益に
とらわれず英米との協調を唱える論者に変身した。更に伊藤の憂慮は対中関係にも及んでいた。
「清人の不満を買わない様努めるのは日本にとって最も適当なる方策である、・・・・満州に於いても
清国人の満足する方針をとるべき」と。この急変を、伊藤博文は誰よりも深く心配し、西園寺首相に
「満州問題に関する協議会」の開催を要請した。かくて1906年5月会議が開かれた。
http://blog.goo.ne.jp/tatu55bb/m/201403

1905年 日米間でハリマン事件(南満州鉄道の経営権問題)

・日本がこの覚書を破棄したこと知ったハリマンは、『烈火のごとくに怒り、ただちに翌年の8月に腹心の
ウィラード・ストレイトを奉天領事に送りこみ、徹底して日本の利権とアメリカ人の利権とを衝突させて
いったのである。』
・『この時、ハリマンは次のような言葉を言い放った。「日本は十年後に後悔することになるだろう!」 』

・ストレートは、ハリマンの娘と結婚して、アメリカの在奉天領事となった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-5/ad1905a2.htm

ルーズベルト大統領の意向を受けてエドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、1905年10月12日に奉天以南
の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、モルガン商会からより有利な
条件を提示されていた小村寿太郎外相の反対によって破棄された[15]。

15.^ 若狭和朋『日露戦争と世界史に登場した日本』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84

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